大学入試が終わった。もう、文字通り終わった。
センター試験の結果はそこそこ良かったはず。目標としていた得点には届いていた。
でも、二次試験は自信がない。解けるはずの問題も、緊張してわけがわからなくなってしまった。
きっと憧れの学校に来て、試験を受けるということが、あたしにとって幸せなことだったんだ。これ以上の幸せは望んじゃいけないんだ。
さようなら、あたしの女子大生ライフ。さようなら、あたしの素敵な一人暮らし。
大きく溜息を吐きながら、あたしはホテルまでの道をとぼとぼと歩いていた。来るときはバスを使ったけれど、帰りはなんだか歩いてみたくなったのだ。バスの窓からずっと外を眺めていたから、道はわかっている。……もしかして、それがいけなかったのかな。参考書をもう一度確認しておくんだった。
宿泊している駅前のホテルが見えてきた頃、今夜の晩ごはんを調達しなくちゃいけないことを思い出した。あたしが今回利用した受験生用の二泊三日コースには、朝食はついていたけれど、夕食はなかった。昨夜は近くにあったコンビニでおにぎりを買って、軽く済ませた。勉強もしなくちゃならなかったし。今日のお昼も同じコンビニのサンドイッチだった。
でも試験がすっかり終わってしまった今日は、ちょっと参考書やノートから離れたい。ごはんをのんびり食べたいな。事前にちょっとだけ調べた情報によると、この町の商店街は隠れた名店があるらしい。あたしは携帯電話で地図を確認してから、ホテルには戻らずに、商店街へ向かうことにした。
なんだか懐かしい雰囲気の漂う商店街は、お店の人もお客さんも元気いっぱいだ。あたしの住んでいる町のシャッター商店街とは全然違う。美味しそうな匂いもそこここから漂ってきて、お腹の虫がぐうと鳴いた。
あたしの目がお総菜屋さんを捉えたとき、今すぐ食べるおやつが決まった。晩ごはんはそれとして、とにかく何かお腹に入れたくなった。そんなときに見つけた「コロッケ」の文字は、なんだかとっても魅力的だったのだ。
「すみません、コロッケ一つ」
気が付いたら、あたしはお店のおじさんにそう言っていた。おじさんは「はいよっ」と元気に答えると、ラミネート加工されたメニュー表を出してくれた。
「コロッケは何種類かあるんだよ。今はこれがおすすめだね。白花豆のコロッケ」
「白花豆ですか? お豆をコロッケに?」
「節分が近いからね、豆を使ったやつを出してるんだ」
そういえばそうだった。受験勉強に集中していて意識していなかったけれど、三日後は節分だ。家では毎年、お母さんが張り切って、恵方巻と豆を用意している。
改めて意識して商店街を見渡してみると、「節分」の二文字があちこちに踊っていた。行事のたびに張り切って関連商品を売るのは、どこも同じらしい。
「じゃあ、白花豆のコロッケ一つ」
「はいよ。揚げたてを渡すから、ちょっと待ってて。お嬢さん、初めてだよね。これからお得意さんになってくれると嬉しいなあ」
おじさんが笑顔で言う。お得意さん、か。大学に合格していれば、なれるかもしれないけれど。でも。
……もう、来られないかもしれないです。あたし、今日、北市女学院大を受験してきたんです。でも、全然できた気がしなくて……
初めて会ったおじさんに、何を言っているんだろう、あたしは。でも、きっと誰かに聞いてほしくてたまらなかったんだと思う。そうして、励ましてほしかったんだ。
おじさんはそんなあたしを見て、にかっと笑った。そして、揚げたてのコロッケを油紙に包みながら、おかしな調子で歌った。
「はぁーるぅよ、こいっ、てな。……この町では、節分の豆まきのときにそう言うんだ。この町の神様は鬼だもんで、よそみたいに『鬼は外』なんて言わないんだよ。節分は立春の前日だから、『春よ、来い』って言いながら豆を撒くんだ」
あたしの手にほかほかのコロッケを包んだ油紙が渡される。あ、お金払わなきゃ。
けれどもおじさんは、お財布を出そうとしたあたしを止めた。
「今日はお金はいいよ、サービスだ。お嬢さんに良い春が来たら、お得意さんになってくれよ。約束だからね」
「で、でも、確証ないし……
「春は来るよ。今度はこの町の住人としておいで、お嬢さん」
お総菜屋さんのおじさんは、そう言って、とても穏やかに微笑んでくれた。
……
「春よ、来い」か。うん、前向きでいい言葉。今年はあたしも、そう言って豆まきをしてみようかな。そして来年は、この町で、また白花豆のコロッケを食べながら節分を迎えたい。
「ありがとう、おじさん。あたし、きっとまた来ます」
「ああ、待ってるよ。お嬢さん、お名前は?」
「桜田亜美です。憶えておいてくださいね」
コロッケはほっくりしていて甘くて、とても美味しかった。
あたしが次にこの店に来るのは、その二か月後になる。この町の女子大生として、胸を張って。

*
 * *

今日の晩御飯は何にしよう。やっぱり節分だし、それっぽいものにしちゃおうか。
そんなことを考えていた昼休み、私のもとに一通のメールが届いた。
「今晩一晩泊めて」
……
うん、連絡してくるだけマシになったな、うず。
いいよ、と返信して、私は再び晩御飯のことを考える。うずが来るんだったら、材料さえ揃えておけば、何か作ってくれるかもしれない。あの子、料理は得意だから。
節分といえばなんだろう。豆? 鰯? 恵方巻? 私には豆くらいしか用意できそうにないな。鰯のフライとかなら、お総菜屋さんで手に入りそう。仕事が遅くなってしまったら、仕方がないからスーパーで。恵方巻は、それらしいものにしようと思ったら贅沢になっちゃうな。
そんなことを思っていたら、再び携帯電話が震えた。さらにメールを送ってくるとは、うずにしては珍しい。
「豆と恵方巻買ってくから節分やろう」
おお、さらに珍しい。うずが行事の提案をするなんて。私はちょっと嬉しくなって、受かれた返信をしてしまった。普段は使わないような絵文字なんかを、たくさん使っての「ありがとう、お待ちしています」。
案の定、会ったときにまず「メールがきもい」と言われた。調子に乗りすぎたなと、自分でも反省している。
部屋に入ってすぐ、うずはテーブルの上に、豆の入った袋と、恵方巻が二本入ったパックを取り出した。豆は撒いた後に片付けがしやすい、殻付の落花生だ。学生時代にもこうして節分の真似事をしたっけ。なんだか懐かしい。
「本当に買ってきてくれたんだ、ありがとう。先に晩御飯にしようか? お総菜屋さんで鰯のフライ買ってきたんだよね。ご飯も解凍すればすぐに用意できるし」
私が自分の戦利品をテーブルに出すと、うずは首を横に振った。
「先に豆を撒く。憎い奴の顔を思い浮かべながら思い切り投げつける」
……うず、また彼氏と喧嘩してきたのか」
まあね、そんなことだろうと思ったよ。それくらいしか、うちに来る理由ないものね。来てくれるのは嬉しいけれど、彼氏という存在には敵わないなと痛感する。
でもね、うず。それじゃ、この町の節分としてはふさわしくないんだな。さっき、私は商店街で教わってきた。この町の節分は、もっと穏やかで、幸せなものなんだよ。
「あのね、うず。礼陣の節分は『春よ、来い』って言いながら豆を撒くんだってさ」
……春?」
「節分が立春の前日だから、だって。それと、これから一年の幸せを招くため。だから、そんな不機嫌そうに豆まきなんかしたら、幸せがこないよ」
私は勝手に晩御飯の支度を始めた。うずはしばらく黙って座っていた。テーブルの上に温めたご飯と、取り皿が置かれるまで、黙っていた。
「ちょっと、さーや。恵方巻あるのに、なんで米追加するの」
「鰯のフライには白いご飯でしょ。恵方巻は別腹」
「信じらんない。人がせっかく二人分買ってきたっていうのに」
うずは深く溜息をついて、けれども私が用意した彼女専用の箸をちゃんと持った。取り皿に鰯のフライを移し、それから「味噌汁くらいつけなさいよ」と文句を言って、台所に立った。
いつものうずだ。春夏秋冬、いつでも変わらない彼女が、ここにいる。春が来ても、この子はこのままなんだろう。自分の都合で私の家と彼氏の家を行き来して、気ままに暮らしていくんだろう。
……さーや、『春よ、来い』だっけ」
味噌汁に乾燥わかめをぱらりと入れて、うずが言う。
「そう。『はーるよ、こい』って」
「幸せがどうとかは別として、そのやり方でやってもいいよ。この町ではそれがルールなんでしょ?」
突然そんなことを言いだすのも、自由な彼女だから。面倒だけど、憎み切れない、私の好きな人だから。
私は頷いて、彼女のよそってくれた味噌汁のお椀を、テーブルに二つ並べた。

*
 * *

珍しく早く仕事を終えて帰ってきたら、階段脇の101号室が妙に騒がしかった。ギターの音は休みの日によく聴こえてきて、それがとんでもなく上手いのだけれど、今日はそれとは違うみたいだ。
その中に、俺のお隣さんの声が混じっていた。101号室の奴と仲がいいのは知っているけれど、こうして実際に楽しげな声を聴くと、わずかながらもショックを受ける。……うん、わずかだ。ほんのちょっとだ。
しかし、いったいどうしてこんな平日にどんちゃん騒ぎをしているのか。普通、飲み会なら休み前にやるんじゃないか? それとも、自由業であるお隣さんたちには関係ないのだろうか。
いずれにせよ、俺の関われるところじゃない。せっかく早く帰ってきたんだ、ビールでも飲みながらのんびりしよう。
そう思っていたときだった。
「根谷さーん! おかえりなさーい!」
お隣さんの声が、階段を上っていた俺に届いた。101号室のドアから顔を覗かせ、こちらに手を振っている。俺はぎこちなく片手をあげて、なんとか応えた。
「た、ただいま」
「今日早いんですね! ちょうどいいから、こっちでみんなで飲みません?」
お隣さん――河野さんが、まぶしいくらいの笑顔で言った。断り切れるわけがない。たとえその場所が、他の男の部屋だとしても。
着替えてから改めてあがりこんだ101号室、歌とギターがめちゃめちゃ上手い内田君の部屋は、すでに人でいっぱいだった。大学生から社会人まで、幅の広いような狭いような年齢層の人間が四人集まっている。俺で五人目だ。
「お疲れ様です、根谷さん。なんか飲みます?」
部屋の主である内田君が、ビールやら缶チューハイやらが雑多に並んだテーブルを指さす。一応つまみもあるようだ。柿の種に煎り大豆、甘納豆に豆入りおかき……なんだ、やけに豆ばっかりじゃないか?
「俺、ビール持参してきたから大丈夫。それより、なんでつまみが豆ばっかり?」
「そりゃ、今日が節分だからっすよ。二月三日」
当然でしょ、というように、たしか大学二年の平松君が教えてくれた。そうか、今日は節分だったのか。だからこんなに豆だらけなんだ。仕事が忙しくて、そんなのすっかり忘れてた。
「そっか、節分か。豆まきしたの?」
「ううん、これからみんなでやろうって話してたとこです。私もちょうど仕事が煮詰まっちゃって、気分転換したかったし。豆でも撒いたら、良いデザインが浮かぶかもだし!」
河野さんが頬を赤くして、やけに元気に言う。さては、結構飲んだな。イラストレーターというのも、きっと大変な仕事なんだろう。
「私、こっちの節分って初めてなんですけど。なんか、『鬼は外』って言わないらしいですね?」
一人だけジュースを飲みながら尋ねてきたのは、まだ大学一年だったはずの比賀さんだ。去年の四月から今まで、こっちでの行事は何もかもが初めてだっただろう。
俺はビール缶のプルタブを引きながら、彼女に頷いた。
「そうそう。俺もこっちに来てから、商店街の人とかアパートに先に住んでた人に聞いたんだけど。この辺の神様ってのが鬼だから、外に出しちゃいけないんだそうだ」
「それをさっきヒロさんから教えてもらって、じゃあ『鬼も内』? って思ったんですけど。そうじゃないんだよってなって……何でしたっけ?」
比賀さん、ジュースで酔ってないか? というか、二年目なんだからちゃんと教えてやれよ、ヒロさんもとい平松君。俺が呆れていたところで、内田君が超良い声で唄った。
「はーるよ、こい。……だったよな。明日が立春で、春になるから、『春よ、来い』って言いながら豆を撒くんだよ」
いつ聴いても良い声だな、内田君。男の俺でもほれぼれするよ。これは河野さんが惚れても仕方ないよな。うん、仕方ない。
「春ったって、まだ冬っすよね。二月だし。オレの春は遠そうだし」
「ヒロさんはそのいい加減な性格じゃ仕方ないですよー」
「比賀ちゃん、オレに厳しいよね。もっと先輩労わってよ。あーあ、207号室の沙綾さんみたいな、綺麗な彼女ほしいなー!」
大学生組の会話が若い。なんというか、青春っぽい。いいなあ、俺にもあんな時期、あったはずなんだけどな。悔しいから、平松君に絡んでやろう。
「平松君、彼女いないの? すぐできそうじゃない?」
「それができないんすよ。ていうか、沙綾さんがいい」
「高望みだな。じゃあ、試しにアタックしてみれば?」
「ただの大学生のオレが相手にしてもらえるわけないじゃないっすかー。ていうかアタックって、根谷さんやっぱ年っすねー」
ああ、今わかった、平松君に彼女ができない理由。さすがに俺も、人から年だと言われるとカチンとくるぞ。平松君にヘッドロックをかけてやりたい衝動を抑えながら、俺は乾いた笑いをもらした。すると。
「こらこら、ヒロ君。人に向かって年っすねはないでしょうよ。私と根谷さん、そんなに変わんないんだからね」
河野さんが割って入ってきた。文字通り、俺と平松君の間に移動してきたのだ。横顔が近くて、どきっとした。
「ねえ、根谷さん。この失礼な子、ごついちゃっていいから」
「ええー。すんません、シオさん、根谷さん」
……いや、やっぱ許せないや。河野さんのこと、気安くシオさんなんて呼ぶ若造は許せん」
って、何言ってんだ俺。ビール一缶も空けてないうちに酔ったか?! 弁解しようと、慌てて河野さんを見る。だが、彼女は気にしていない様子で笑っていた。平松君もだ。
「ほら、根谷さん怒らせた。だめだよ、ヒロ君」
「許してください! このとおりです!」
みんな酔っぱらって、わけがわからなくなってるんだろう。……そうか、今なら何を言っても流してもらえるんだ。俺はホッとして、ビールの残りを飲み乾した。それを見計らったのか、内田君がおもむろに立ち上がり、まだ開いていない煎り大豆の袋を持った。
「そろそろ豆まきしませんか? 外に出て、ぱーっと」
「やった! 礼陣での初豆まきキター!」
比賀さんが両手を挙げて喜ぶ。そんなに楽しみだったのか、豆まき。いや、きっとみんなで何かをするってことが嬉しいんだろうな。
もしもあの人が、秋華さんがここにいたら、同じように喜んだはずだ。あの人も、祭りは好きだったから。
内田君を先頭に、上着も羽織らずに外に出る。さすがに寒いが、酒と雰囲気でテンションが上がっている彼らは平気そうだった。だから俺も強がって、冷たい空気の中に立つ。寒さに身をさらしていると、頭が冴えていくようだった。
「はい。これ、根谷さんの分です」
内田君が一掴み分の大豆をくれた。両手で受け取って軽く振ると、擦れあってしゃらしゃらと音をたてる。全部右手に置きなおして、ぎゅっと握った。
「それじゃー、やろっか! はい、みなさんご一緒に!」
比賀さんが明るい声で呼びかける。それに合わせて、俺たちは豆を宙に放った。
「はーるよ、こーいっ!」
これで、俺にも春が来ればいいんだけどな。平松君のことをからかっていられない。豆を撒いて満足そうに笑う河野さんを見ながら、そう思った。

*
 * *

外がなんだか賑やかだ。どうやらアパート内の数人で集まって、豆まきをしているらしい。ということは、彼らも俺たちと同じなんだろう。
俺と服部、そして高校生の健太は、室内で静かな節分を過ごしていた。二人とも、俺の作った煮豆と太巻き目当てでこの部屋にやってきた。健太はたぶん、服部が誘ったんだろう。せっかくなので、ばあちゃんが送ってくれた鰯のみりん干しも振る舞うことにした。
煮豆くらいなら他の部屋の住人にもおすそ分けできるかなと思って大量に作ってしまったが、どうやら他の部屋はそれぞれ盛り上がっているようなので、訪問しにくい。隣の部屋からも「はーるよ、こい」という声が聞こえてきた。この町の節分ではお馴染みの言葉だ。
うちの生徒の話によると、この「春よ来い」という文句は、ここ二十年ほどで定着したものらしい。こうやって新しい文化が作られていくんだな。面白い。
「井藤先生、今年の恵方ってどっち?」
健太が太巻きを持って訊いてくる。たしかこの恵方巻ってやつも、ごく一部の地域でやってたものを広めたんだっけ。俺は数学教師だけど、文化の話は興味深いと思う。
「うーん、忘れた。神社の方とか向いて食ってみたら? ご利益あるかもよ」
「神社ね。そうしよっと」
「お前たちはアバウトだな。今年は西南西だ。神社とはほぼ逆だぞ」
服部が正しい情報を教えてくれてしまったせいで、神社の方を向いて恵方巻を食べるという計画はつぶれた。もともとそんな計画なかったけど。そういうわけで、結局俺たちは、いつも世話になっている礼陣神社に背を向けて太巻きにかぶりつくこととなった。その間はひたすら無言、噛み千切ることは許されない。縁を切ることに繋がってしまうんだそうだ。……たしか、そんな感じ。
黙々と美味しいものを食べるのはなんだか納得がいかないんだけれど、そういう決まりなので従って、やっとそれぞれ一本ずつ食べ終わった。
……っはー! やっと喋れる!」
「なんだ、健太も喋りたかったのか」
「そりゃ、そうですよ。美味いもん黙って食うなんて、拷問じゃないですか。本当に美味かったです、ごちそうさま」
「こればかりは健太に同意だな。井藤、ごちそうさま」
うんうん、さすがは俺の見込んだ奴らだ。全く同じことを思っていた。作った側としても、こうして「美味い」と言ってもらえるのは嬉しい。
「太巻きだけで満足するなよ。ばあちゃんのみりん干しと、俺が心を込めて煮た豆もあるんだからな。白米いるか?」
「欲しいです! さっきからみりん干しの匂い、気になってたんですよ!」
高校生が食欲旺盛なのはいいことだ。バイト帰りだから、余計に腹が減ってるんだろう。健太の茶碗には、飯を山盛りにしてやることにした。
鰯はその臭いで邪気を祓うと聞いたが、ばあちゃんのみりん干しは焼くといい匂いがする。俺は昔から節分のたびにこれを食べてきた。本当に美味いのだ。ぜひ服部と健太にも味わってもらいたい。
ついでに煮豆も、ばあちゃん直伝の味だ。俺の料理の腕は、ばあちゃんがいなければ培われなかった。こうして客を呼んで飯を食えるのは、ばあちゃんのおかげといっても過言ではない。
「井藤さん、おばあちゃんのこと大好きですね。オレもうちの飯は好きですけど」
「俺にとって家庭の味といえば、ばあちゃんの味だからな。さあ、たんと食え」
「井藤のおばあさんには感謝しなければならないな。では改めて、いただきます」
食事の後は、俺たちも豆まきをしてみようか。この町らしく、「春よ来い」の掛け声で。うちの受験生たちの合格祈願もしなくちゃいけないしな。
俺のクラスも、服部のクラスも、それから幕内先生のクラスも。三学年全員の進路が、無事に決まりますようにって。
俺たちと、俺たちに関係する人全てに、良い春が来ますように。さっきは背を向けてしまったけれど、頼みますよ、礼陣神社の大鬼様。

*
 * *

節分だろうがなんだろうが、いつもと変わらず俺はパソコンの前にいた。
外や隣の部屋からは、「春よ来い」の掛け声が聞こえる。豆まきをしているんだろう。あの掛け声は、このあたりの風習だったはずだ。鬼を祀っている神社があるから、「鬼は外」と言ってはいけないんだったか。
俺には関係ないけれど。なにしろ、ほとんど外に出ないので、季節なんかないも同じだ。一年中インスタントラーメンを食べ、株価の変動を眺めている。それだけなのだから。
……
いや、一つだけ、季節を感じられるものがあったな。そう思ったとき、ちょうど新着メールが入ってきた。あの人だ。すぐに開いて、文面を確認する。
「千原君、元気ですか。僕は今、色野山のある家にお世話になっています。
ここは雪が膝ほどまであって、歩くのがとても大変ですが、きれいな雪と可愛い動物たち、そして元気な山の子供が撮れるので、とても素敵な場所です。
今日は節分ですね。僕も『春よ来い』と言いながら、豆を撒きました。そのときの写真を送ります。
千原君にも良い春が来ますように、願っています」
メールには添付ファイルが二つついていた。念のためウィルスチェックを通してから、それを開く。すると、この季節のない部屋にも、節分がやってきた。
ファイルは二つとも画像だ。メールをくれた、村井さんの撮った写真だ。この優しい写真家は、どこかへ行って写真を撮ってきては、俺に見せてくれるのだ。
一枚目は、山の雪景色。白い地面に真っ青な空。黒くそびえる木々には、赤い実がなっている。それが絶妙なバランスで一つの画面に収まっていた。
二枚目は豆を撒く子供と老人。二人とも楽しそうな笑顔だ。ただの画像なのに、「春よ来い」の掛け声が聞こえてきそうだった。今はこの人たちの世話になっているのだろう。
……はーるよ、こい。……か」
思わず呟いた。誰も聞いてやしない。ここには俺一人きりだ。
けれどもきっと、春はやってくるのだろう。また村井さんが、綺麗な景色をここに運んできてくれるのだろう。
俺は、その日が楽しみでならなかった。

*
 * *

公立大入試が近づいている。私はひたすら勉強に打ち込まなければならない身なので、世間が楽しんでいる「節分」には加われない。
別に余裕がないわけではない。狙っているのは、それほど偏差値の高くない大学だ。ホームページでの紹介を見る限り、なかなか素晴らしい田舎らしい。私の地元と、そう変わらないくらいには。
「鬼はー外! 福はー内!」
外から子供の、そんな声が聞こえてきた。豆まきをしているのだろう。きっと今日という日を、楽しんでいるんだろうな。羨ましいことだ。
私は目の前のあまり楽しくない英文を読まなければならないというのに。
……
そういえば、大学のある地域を少し調べようと思ったときに、こんな記事を見つけたんだっけ。
「礼陣には鬼を祀る神社があるため、節分のときに『鬼は外』と言いません。代わりに『春よ、来い』と言いながら豆を撒く家庭が多いようです」
それを読んで、私は大学だけでなく、その町にも興味を持った。面白い文化を持った地域に行くことになるかもしれないのだと、胸が躍った。
「春よ来い、か。……私にも来てほしいなあ。合格したいなあ」
一人呟いて、再び英文へ目を落とす。これを読み解くことができれば、私はまた一歩春に近づけるのだ。春よ来い、というよりは、待ってろよ春、といったところか。
早く現地に行ってみたいな。試験に受かって、住んでみたいな。礼陣という、少し不思議な雰囲気をもつ町に。
「みやこ、夜食作ろうか?」
「ありがとう、お母さん。お願いしまーす」
そのために、さあ、もう一頑張りだ。