目が覚めたとき、玉子焼きの匂いがした。
まだ覚醒しきっていない頭で、台所に立っている人物を探る。あいつか、それともあいつか。どっちだ。
眼鏡もかけずによろよろと立ち上がると、その正体がわかった。
「あ、俊也君。おはよう」
なんだ、君か。そういえば、泊まっていったんだっけか。本来は一人用の、こんな狭い場所に。
この古いアパートに引っ越してきてからの時間は、自分にとって重要なものだ。様々な事柄と、ほぼイコールとなって結びついている。
一つ、自分がこの町に来てからの時間。
一つ、自分が教師として働き始めてからの時間。
一つ、上の階に住む同僚兼友人と知り合ってからの時間。
ここに来たとき、同時に多くの事柄が始まったのだ。まだ三十年にも満たない短い人生だが、この部屋での暮らしは一生のうちで最も印象深いものになるであろうことは間違いないと思っている。
来たばかりのときは散らかり放題だった部屋が、今はすっかり片付いている。訪れた者が「几帳面そうな人柄が出ている」と評価するくらいには。
それほど多くのものは詰め込まれないだろうと思っていた冷蔵庫には、惣菜などが所狭しと並ぶようになった。友人や彼女、それとアパートの他の住人から、何かしらもらっているからだ。
特に何も置く予定のなかった玄関は、数人分の靴で埋まることもあった。そういった日は本当に楽しい気分で眠りにつくことができた。
苦難困難もそれなりにあったが、このアパートでの生活は、大きく見れば幸せなものだった。離れがたいと思うのは、きっとそういうことなのだろう。
けれども離れなければならない。新しい生活のために。一人ではなく、二人の人生を始めるために。
このアパートの、この部屋での生活に、自分は終わりを告げようとしている。終わりのための計画を立てている。
茶碗にほどよく盛られた白米。具がバランスよく入っている味噌汁。青菜のおひたしに、大根おろしが添えられた玉子焼き。彼女の整える朝食は、とてもしっかりしているとまではいえないかもしれないが、自分にとっては十分なものだ。
これに加えて、昨夜の残り。友人たちアパートの住人から受け取ったおかずがいくつか、一緒にテーブルに並んでいた。統一感のない、少々奇妙な食卓だ。
「さ、俊也君。いただきましょうか」
彼女が手を合わせて、「いただきまーす」と言う。自分もそれに倣うようにしてから、箸を持った。
飯を食べながら、彼女を見る。もらいものを皿に丁寧によそい、それをきれいな箸づかいで口に運んでいる。それから、ふにゃりと頬を緩めた。美味いものを食べたときの彼女は、なんて幸せそうな顔をするのだろう。
「うーん、やっぱりレシピをまとめてもらうべきかな」
煮物を咀嚼して飲み込んでから、幸福に満ちた表情が途端に真剣なものに変わる。彼女がそうしているあいだに、自分は玉子焼きを箸で切る。
「井藤の煮物か」
「うん。俊也君、この味好きでしょう? 全く同じにはできないかもしれないけれど、近いものは食べさせてあげたいなって。煮物だけじゃなくて、他にもいろいろ……」
彼女がこんなふうに言うようになったのも、自分がここに来てからだ。その前はうちの母の味を真似ようとしていて、実際かなり近いものを作っていたように思う。
「綾乃の味でいいと思うが」
「井藤君の作るご飯、私が作るよりもずっと美味しいんだもの」
「そうか? 人に作ってもらったものはよほどのものでなければ美味いと感じるだろう」
「うわ、そういうこと言っちゃう? 作り甲斐のない人だな、俊也君は」
「何でもいいとは言ってないだろう。綾乃の作るものは綾乃の味でいいと言っているんだ」
彼女がいいと思ったから、付き合っている。彼女がいいと思ったから、結婚を決めた。普通に作っても美味いものは美味いのだから、料理の味をそこまで気にすることはないと自分は思う。
そう、彼女との生活を選ぶから、このアパートを出ることにしたのだ。荷造り用のダンボールを玄関に用意して、持ち物を整理して。この数年を思い出にすると決めたのだ。
だから彼女も、「アパートの住人の味」にこだわることはない。
「……ねえ、俊也君」
彼女がぴたりと箸を止めた。玉子焼きを飲み込んでから、自分も食事を中断した。
「私も、このアパートに住んじゃだめかな」
「今から住んだら、一緒に暮らせないぞ」
「そうじゃなくて、この部屋に俊也君と。二人で、ここにいたい」
その言葉に、すぐに返答することができなかった。
自分は彼女と生活していくために、ここを出て行くと決めた。けれども、きっとこの言葉を待っていたんだろう。
本当は、この居心地のいい場所に留まりたくてしかたがなかったんだ。温かくてかけがえのない、この場所での生活に、もっともっと浸っていたかったんだ。
上には友人がいて、惣菜のおすそわけだと言いながら一緒に食事をしに来る。他の部屋の住人は、何度か入れ替わりもしたが、誰もがいい人たちだった。あまり接点のない人物もいたが、顔を合わせた数少ない機会には、必ず挨拶を交わした。
困ったことがあれば助け合った。楽しみは共有した。一人暮らしだったが、独りではなかった。
彼女もこの雰囲気を、生活を、好きだと言ってくれた。
でも。それでも。
「無理だよ。二人で暮らすには、この部屋は狭すぎる。それにもっと先のことも考えなくちゃいけないだろう」
新しい生活を望むからには、いつまでもここで立ち止まっていることはできない。自分だって、周りだって、それをわかっている。
だからこんなにたくさんの「おすそわけ」で、自分と彼女の門出を祝福してくれたのだ。
「二人は、いつか三人になる。四人にも、五人にもなるかもしれない。俺たちはそのつもりで、準備をしているんじゃないか」
ここにはいられない。誰もに必ず、ここにいられなくなる日が来る。そうして出て行った人たちを、自分は何人も見てきたじゃないか。
「……そうだね。ここじゃ、ちょっと狭いね……」
彼女は部屋を見渡して、微笑んだ。
「わがまま言っちゃ、だめだよね。学生さんたちだって、卒業して出て行ったんだもの。私たちもここを卒業しなきゃいけないんだよね」
「そうだ。……だから早く朝飯食べて、部屋を片付けるぞ」
「ううん、待って。ご飯はゆっくり食べようよ。ここでの時間、大事にしたい」
そうして彼女は、またゆっくりと箸を動かし始めた。自分も、彼女にうなずいてから、食事を再開した。
食器を片付けながら、彼女は明るく言った。
「でも、やっぱり井藤君のレシピは欲しいな。私もあの味好きだから」
「頼むといい。あいつならきっと快く教えてくれる。……そしてそれを、綾乃の味にしてしまえばいい」
「俊也君のお母さんからレシピを教わるときも、同じ台詞を聞いたね」
それはたしか、自分が一人暮らしを始める前だったか。なるほど、人の歴史は繰り返しの連続だ。それでいて、前に進んでいるのだ。
自分がこの部屋を出たら、今度は誰が新しい時間を刻み、過ごすのだろうか。