駅前に、公園。街中のギャラリー前や、商店街の隅。許される限り、場所を借りてギターを弾く。
自作の曲をやいたCDなんか並べて、町の空気を吸い込んで、近所迷惑にならない程度に声を張りあげて歌う。
誰かが立ち止まって聴いてくれることもあれば、走り回る子供の声に全部かき消されてしまうこともある。
それでもこの町に来てからは、少し聴衆が増えているような気がする。そんなことを、足繁く通うパン屋の奥さんに言ったら、おっとりした表情と声でこう返してくれた。
「このあたりの人は、絵とか音楽が好きだからね。そうだ、今度は神社で歌ってみたらどうかしら。内田君の歌は上手だから、きっと神主さんが喜ぶわよ」
なぜライブの場に神社を勧めるのかは甚だ疑問だったが、この町の人たちが俺にとても優しいことはわかった。
パン屋の奥さんが言っていた神社の近くに、俺の住むアパートはある。その名も「コーポラス社台」。社台というのは、この地区の名前だ。わかりやすくていい。
一階の端、二階へ行く階段のすぐ横が俺の部屋だ。足音や近くを通る車の音がよく響いてくる。でも向こうからすれば、この部屋からギターの音が聞こえてきてうるさいと思っているかもしれない。
幸いにして、隣と真上の住人は、引っ越してきてすぐに味方につけることができた。荷物の整理を手伝ってくれた上に、俺の演奏を聴いてくれた。この町に来て最初の聴き手だった。
隣に住む大学生ヒロは、それ以来俺の部屋をよく訪れるようになった。新曲ができたら、まずこいつに聴かせている。結構ずばりと感想を言ってくれるので、活動の参考にしている。
上に住むイラストレーターのシオさんは、どういうわけか俺の曲をいたく気に入ってくれて、ときどき公開を手伝ってくれる。録音した曲をインターネットの動画サイトにアップロードするとき、それにイラストをつけてくれるのだ。プロが、俺のために。
このアパートに来てからというもの、運が向いてきたなと感じることが多くなった。もしかしてここは、俺にとってのパワースポットのようなものなのだろうか。
そう思うとなんだか心持ちも明るくなってきて、オーディションを受けようという意欲も湧いてきた。動画サイトで見るコメントには辛辣な批評もあったけれど、「良かったよ」「この曲好き」という嬉しいものもたしかにあった。俺はだんだん、自分に自信が持てるようになっていた。
ここに越してくる前はどうだったかというと、大学に通いながら、路上で歌っていた。やっていることは、今とそんなに変わらない。
けれどもそこは今いる場所よりも都会で、人は早足で通り過ぎていくことが多かった。こちらには目もくれず、忙しそうに動いていた。
「こっちは大変だっていうのに、学生は気楽なもんだな」
そう吐き捨てていく人も、ときどきいた。その度に「俺はあんなせかせかした社会人にはなりたくないな」と思っていた。
どうせ誰も聴いてやしない、なんて考えながら歌っていたら、立ち止まってくれる僅かな人のことが目に入らなくなった。いや、こちらを見て足を止めていることはわかっていたのだけれど、なんだか嘲笑されているような気がしていた。完全な被害妄想だ。
自作の曲は粗く、荒くなり、歌詞はひどいものになっていた。世の中にとにかく不満や不平をぶつけるような、そんなものばかりだった。たまにそういうのはやめようと思って優しげな詞を作ってみても、上っ面だけで中身のないものばかりができあがった。
そのうち周りが就職活動を始め、次々に内定が出て、俺は将来が定まらないまま取り残されていった。スーツに身を包んで内定式に向かう奴らの中で、俺一人がだるだるのシャツとジーンズという姿で、ぼうっとしながらつっ立っていた。
俺はミュージシャンになるんだ! なんて大言は次第に妄言になった。学校を卒業しても定職に就けなかった俺は、親もとにいるのが気まずくて、学生時代にバイトをして貯めていた金で家を出た。ずっと実家暮らしだったのもあって貯金は十分だったし、いい機会だった。
そうしてやってきたのが、今住んでいる町の、このアパートだった。古い分家賃が安く、そのくせ壁は薄くない。紹介してくれた不動産屋の言葉はこうだ。
「ここはいい物件ですよ。なにしろ神社が近いから、この町の神様がしっかり守ってくれます。きっとご利益がありますよ」
真面目そうな見た目でそんなことを言うものだから、呆気にとられてしまって、心の中でさえ馬鹿にできなかった。
実際、ご利益はあったと思う。「やる気が出る」というご利益が。
レンタルショップで働きながら、路上で歌ったり、部屋で歌を録音して動画サイトに載せたりするのが、今の俺の日課だ。
インターネットでの楽曲公開を勧めてくれたのはヒロだった。それまでは「そこまでしなくても」なんて思っていて、そういうことには手を出してこなかった。
ヒロがそう言ってくれたときも、初めは渋っていた。けれどもそれにシオさんが乗っかってきて、「じゃあ私がイラストつけるから!」なんて言いだすものだから、後に引けなくなった。
すっかり盛り上がってしまった二人の前で録音をして、次の日にはシオさんがすごくいい絵を描いてきてくれて、ヒロが手際よくそれらを編集した。気がついたら俺の歌声が、スピーカーから流れてきていた。世界的な動画サイトを表示したディスプレイが目の前にあって、シオさんのイラストが妙に合っていて、俺は呆然とした。
コメントは思ったよりも早くついた。が、しばらくはシオさんの絵についてばかりだった。そのうち曲に言及されるようになって、ついにこう言ってもらえた。
「次の曲もあるのでしょうか。待ってます」
現在の日課はそれから始まった。
二曲目の公開準備を進めていたとき、俺はシオさんに尋ねた。
「シオさん、なんで俺の曲に絵をつけるなんて言ったんですか?」
すると彼女は、なぜか嬉しそうに言った。
「ウッチーの曲を聴いてたら、頭の中に情景がふわーんって浮かんできたの。それで、これ描きたい! って思ったんだよね」
「それなら別に曲と一緒にしなくても……結果的には動画を再生してもらういいきっかけになってくれましたけど」
「ううん、あの絵はウッチーの曲がないと意味がないんだよ。だって、ウッチーの世界だもの」
シオさんの言葉で、俺は妙にすっきりとした気持ちになった。今まで歌ってきたことが、いいものもよくないものも、全部俺の世界だったんだということに、納得してしまったのだ。
「ウッチーさん、編集完了したっす!」
ヒロが呼ぶ。俺の世界を見つけてくれた二人が笑顔で、完成した動画を見る。俺はただただ嬉しくて、照れくさくて、たぶんそうとうにやけていた。
今でもまだ慣れなくて、にやけている。けれどもこのだらしない顔が、きっとアパートのご利益の代償なんだろう。