あたしは一人暮らしに夢を見ていた。
部屋はお気に入りの小物やぬいぐるみでいっぱいにして、窓には可愛いカーテンをかける。素敵な食器をそろえて、休みの日は優雅にティータイムを楽しむ。そんなことが自由に出来るのだと思っていた。
あたしは一人暮らしに、夢を見すぎていたのだ。
現実は、食器や小物を満足にそろえることもできず、手元にあるものや百円均一で買った品々でなんとか生活できるようにし。ぬいぐるみを置いてはみたものの、放り出した服に埋もれたり埃をかぶったりして、可愛いとは言いがたい。
散らかった部屋を見て、あたしは毎日溜息をつくことになってしまった。
本当のところ、一人暮らしどころか、進学すらも親に反対されそうだった。
現在あたしが通っている女子大学は、高校に入ってすぐにその存在を知って、ずっと憧れていたところだった。成績が合格圏内に入ったときは、飛び上がりたくなるくらい嬉しかったことを覚えている。
ところが、ちょうど一年ほど前。学校のある町で女性が殺される事件があった。それがきっかけで、両親はあたしがその学校へ行くことに難色を示すようになってしまった。
ここまで頑張ってきたんだから、となんとか主張を通したら、今度は「寮に入りなさい」と言うようになった。たしかにその学校の女子寮はきれいだし、評判がいいのだけれど。あたしはどうしても寮生活というものが嫌だった。
理由を端的に言うなら、自由になりたかった。おせっかいな両親から離れて、自分の好きなように生活したかったのだ。そこに他人が入ってきたら、あたしの計画は狂ってしまう。
……結局、他人がいようがいまいが狂ってしまったのだけれど。自分で思っているよりも、あたしには生活能力というものが備わっていなかったのだ。
桜田家の一人娘として大事に大事に育てられてきたあたしは、まず家事経験が少なかった。家庭科の成績は良かったから、完全に油断していた。
片付けは苦手だった。よく服を選ぶときに、出したものをそのまま放置していた。教科書やノートも机や床に置きっぱなしで、必要なときだけかばんに入れた。
そんな生活が当たり前だったあたしには、一人暮らしは想像以上に難しいことだった。
「洗濯って、洗濯機に服と洗剤入れるだけじゃだめだったんだっけ……?」
一人暮らしで初めての洗濯で、あたしはお気に入りだった春物のセーターをダメにした。二回目はポケットに紙くずを入れっぱなしにしていて、濃い色のものに白斑をつけた。
「うぇ……お味噌汁、濃すぎる……」
お味噌の分量がわからなくて、酷い味のお味噌汁を作った。「適量」ってつまりどれくらいなのよ。この後薄めたら大量になってしまって、結局残して腐らせた。
「埃ってどうして後から後から湧いてくるのよー!」
毎日掃除をしても、一向に消えないゴミ。しかも回収日に出し忘れてしまい、溜まる一方。
あたしってこんなにだめなやつだったんだ。それを十分に自覚した。勉強だけできても、生きていくのは難しい。
こんなことだから、今更、ほんの少しだけ。実家に帰りたくなった。おせっかいでうるさい両親だけど、なぜだか会いたくなった。
せめてあったかいご飯が食べたい。あたしの舌を作り上げてきた、美味しいご飯が。しょっぱすぎたり薄すぎたりしない、ちょうどいい具合のお味噌汁が。
……気がつけば、学食に通うようになっていた。三食全部学食で済ませてしまえば、自分でご飯を作らなくていい。しかもそこそこ美味しい。値段もそんなに高くはない。
けれども、塵も積もれば山となる。そんな生活を続けていたら、仕送り前にお金がなくなってしまった。
あたしは、生活費の管理すらろくにできなかったのだ。
「お腹すいたな……」
ぐるる、きゅるる。あたしの独り言に返事をする腹の虫。仕送りを少し早めてもらうよう、実家に連絡するべきか。いや、そんなことをしたら「ほらみろ」と言わんばかりに寮に移されてしまう。
でも、いっそそのほうがいいのかもしれない。苦しい自由より、楽な束縛を選んだほうが、今のあたしのためになりそうだ。
あたしは観念して、携帯電話に手を伸ばしかけた。
「亜美ちゃん、いるー?」
それを止めたのは、来客を報せるチャイムと人の声。ふらふらと玄関へ向かって、ドアを開ける。
「ふぁい……」
「うわ、どうしたの亜美ちゃん? 顔色悪いよ?」
心配そうにあたしを支えてくれたのは、上の階に住むみやこちゃんだった。同じ時期に引っ越してきた、同い年の女の子。学校は違うけれど、出会ってすぐに仲良くなったんだ。
「大丈夫、大丈夫……お腹すいただけ……」
「具合悪くなるくらい食べてなかったの?」
みやこちゃん、呆れてる。当然だなあ。……ん? みやこちゃんからいい匂いがする。
お香とか、香水とかじゃない。もっと人間の欲求に直結するような。
「ご飯の匂い……」
「あ、うん。二階の井藤さんにお惣菜もらったの。ちょっと多めにもらったから、良かったら亜美ちゃんも食べない?」
あたしの頭はぼんやりしつつも、その言葉だけはしっかりととらえていた。食べていいんだ。あたし、ご飯食べられるんだ。
「みやこちゃん、天使! ううん、神様! ありがとう!」
「え、あ……うん。よっぽどお腹すいてたんだね。これ、ごはんにピッタリだから、一緒に食べるといいよ。味噌汁もつけてさ」
「ごはん? お味噌汁?」
あいにく、そんなものはうちにはない。お米は初日に炊いておかゆにして以来、なんとなく避けてきた。お味噌汁のことは何度も説明しなくてもいいだろう。
「……あのね、みやこちゃん」
「何?」
「ごはんの炊き方と、お味噌汁の作り方、教えて?」
今、尋ねてみて気がついた。最初から意地なんて張らないで、こうすれば良かったんだ。
あたしはこの日、みやこちゃんに教わりながら、初めてまともなお味噌汁を作った。ごはんは炊けるまで時間がかかってしまうので、みやこちゃんが部屋から冷凍したものを持ってきてくれた。ごはんって冷凍できたんだ。そういえば、冷凍ピラフとかあったっけ。
解凍したほかほかのごはんと、いい塩梅のお味噌汁。そして美味しいお惣菜、これはきんぴらごぼうとほうれんそうのおひたしだった。
「美味しい! 甘辛いきんぴらごぼうが、ごはんにすっごく合う! お味噌汁も、こんなに上手にできるなんて夢みたい!」
「今までどんな味噌汁作ってきたのやら……。でも、なんか意外だな。亜美ちゃんは女の子らしいから、自炊とか完璧だと思ってた」
みやこちゃんが笑う。あたしは苦笑する。
これから、ちょっと頑張ろう。みやこちゃんが想像してくれたような、あたしがなりたかったような、一人暮らしのできる女子になろう。
そのために、あとで実家に電話しよう。泣き言を言うためでも、生活費をお願いするためでもない。ちょっとしたおかずのレシピくらいは教えてもらわなくちゃ。
あたしはまだまだ、一人暮らしに夢を見ている最中。実現に向かって、進まなければ。