カレンダーには赤字でびっしりと予定が書き込まれている。遊びに行くとか、お気に入りの本の発売日だとか、そういったものではない。全て仕事の締め切りだ。
例えば今日の日付の下には、こう書かれている。「ソノダさんにカット1枚、メールで。17時まで」会社名はすでに省略していいほど、長い付き合いになる担当者だ。だからこそ、裏切ることはできない。時間をかけすぎてもいけないし、完成度の低すぎるものを渡すのも駄目だ。
カット一枚でも、これは私の仕事であり、社会の一部になるのだ。中途半端なことはできない。
気合を入れなおしてパソコンに向かい、最後の調整にとりかかった。
改めていうと、私の職業はイラストレーターである。語れば長くなるので省略するが、この仕事をしている、あるいは目指している人たちの中でも、特に運が良かった方の人間だ。
趣味で描いていたイラストがその業界の方に拾われ、徐々に仕事をいただくようになった。まったく嬉しい限りである。
ともかく趣味が仕事になったことによって、私は実家を出て、時間に融通のきく一人暮らしを始めることとなった。規則正しい生活をしている家族の邪魔をするわけにはいかない。
私の貯金と収入でなんとかなる程度の安いアパート。とても小さいけれど、トイレとは別になったお風呂もついている。階段脇なのでちょっと足音が響くけれど、普段からヘッドホンをして音楽をかけている私が気になるほどではない。
好きな場所に資料が置けて、いつでもパソコンに向かって作業ができる。それだけでここは私のお城だ。……いや、このごちゃごちゃした具合は、子供の作る秘密基地に近いかもしれない。
とにかくこの住処兼仕事場で、私は日々を生きていた。
締め切り時間一時間前、ソノダさんにカット一枚を送信。先日から散々打ち合わせをして決定したものだ、大きなダメ出しはないだろう。たぶん。
少し休憩してから、次の仕事に取り掛かろう。思いきり伸びをしてから、台所に行く。ええと、何があったっけ。
冷蔵庫をあさっていると、携帯電話がお気に入りの曲を歌いだした。この曲はソノダさんだな。すぐにとって、返事をする。
「はい、河野です」
「コーノちゃん、おつかれさま。カット届いたよー」
「あ、ありがとうございます」
左手で電話を耳にあて、右手で冷蔵庫からタッパーを取り出す。冷蔵庫を足で閉めて、愛用の机へ。
「たぶんそのまま使えると思うけど、なんかあったら連絡するよ。次の仕事のこともね」
「はい、お願いします。……あ、ソノダさん。たまには仕事以外でも会いましょうよ。のんびりお酒でも飲みながら、日々の疲れを癒して……」
「はいはい、コーノちゃんの仕事が落ち着いたらね。そっちから連絡ちょうだい」
タッパーを片手で開けて、きゅうりの浅漬けを齧る。仕事が落ち着くのは一体いつになるだろう。
好きだからやっている。好きじゃなきゃやってられない。仕事がないのは嫌だけど、ありすぎるのも困りものだ。ありがたいのだけれど、私も人間らしく贅沢で我侭なのだ。好きな食べ物がきゅうりの浅漬けというくらい慎ましやかな分、それくらいの高望みは許してほしい。
「……じゃあ、落ち着きそうな頃に電話します」
「うん、待ってる」
好きなことを仕事にできる。仕事上の付き合いも良好だ。こんなに恵まれているのに、それ以上を望むのはなぜだろう。
とりあえず、今は、ソノダさんに会いたい。一緒にご飯を食べて、お酒を飲んで。
「待っててくださいね。仕事が終わったら、絶対に飲みに行くんですから」
この欲望を原動力にしてやる。いつだって、そうやってやってきた。「描きたい」を仕事に。「遊びたい」を集中力に。
きゅうりを齧って、いざ、私の世界へ。
ふと気がつくと、日付が変わっていた。
目は乾き、肌は脂っぽくなっている。目の前には明日、いや、今日が締め切りのイラストができあがっていた。
「はは……私ってやっぱすごい……」
思わず自画自賛。ううん、絵のことじゃない。この集中力だ。
タッパーは空っぽになっていた。無意識に食べ続けていたらしい。
まだ、一つ終わっただけ。でも、この達成感。
これだから、やめられない。
「うん、でも、ちょっと寝よう。ちゃんと休まなきゃね」
保存をして、バックアップをとって、数枚出力。
それからアラームをセットして、一眠り。
起きたら趣味の絵を描こう。それから仕事をしよう。
やりたいことはたくさんある。やらなきゃいけないこともだけど、楽しみを見つけた私は強い。
強いけど、今は眠いから、おやすみなさい。