一度あれば二度目に気をつけよ。二度あることは三度あると思え。四度目にはもう、そういうことなのだと諦め始める。五度目を迎える頃には、きっと慣れてしまっているだろう。不運も続けば、日常になる。
きっと絶頂期を通り過ぎてしまったのだと、自分に言い聞かせながら生活するしかない。
この部屋にいれば、同意も否定も、慰めも罵りもない。だって、一人なのだから。
「あーあ、宿題めんどくせえ」
静かすぎると独り言が増えるものなのだと、このアパートに暮らしてみて知った。頭の中で考えていただけのことが、気がついたらすべて外にもれてしまっていることもしばしばだ。
一度目は、次は気をつけようと思った。二度目は、またかよと頭を抱えた。三度目、四度目になってくると、もうどうでもよくなってきた。五度目から先は当たり前に、思ったことを呟くようになった。部屋の中なら誰も不審に思わない。学校でだけ、そうしないように気をつければいい。初めはそれが意外と難しかったのだが、今は内と外をうまく分けられるようになった。
一人でいられるこの部屋が内。それ以外は実家ですら外だ。
いや、実家といっていいものか。彼らの方が、この町を出て行ったのだ。そして今になって、やっぱり一緒に住もう、家族のところへ来いと言ってきている。
生れ育った町の、ランクの一番高い公立高校に進学が決まったとき、両親と妹は喜んでくれた。もともと成績は悪くなかったので、合格はほぼ決まっていたようなものだったが、それでも祝ってもらえると嬉しかった。
ところが、どうやらこれがオレの絶頂期だったらしい。てっぺんに着けば、あとは留まるか下るかだけだ。オレの場合は順調に下っていった。
まず、進学準備がほぼ整ったところで、急に父の転勤が決まった。県内のここよりもだいぶ都会らしい場所への栄転だった。そういうものはもっと早くに話があるものだと思っていたが、父の場合はそうではなかったらしい。
その話を聞いたとき、オレは「じゃあ父さんは単身赴任だな」と思っていた。母と妹とオレの三人は今までどおり小奇麗なマンションに住んで、父だけが隣町で暮らすものだと思っていた。しかし。
「会社で一軒家を用意してくれたんだ。そこに家族みんなで住もう」
会社も父も、オレの都合なんか一切考えちゃくれなかった。
「だって父さん、オレもう社台高校行くって決まってるし……」
「社台に行けるなら、向こうの編入試験だって楽勝だろう」
「制服も教科書も、とっくに揃えたんだけど?!」
「え、そうなのか?」
それどころかこの人は、俺が高校に合格したという事実しか確認しておらず、その後のことはなんにも知らなかった。
家族全員が「さあ困ったぞ」というムードになった。「困ったぞ」だけで、一向に話が進みそうになかった。母は父についていくことが当たり前のようなことを言っていて、小学生の妹は両親に従うしかない。あとはオレが諦めて、制服や教科書を損の少ないやりかたで処分することを決めるだけとでもいわんばかり。なんだこれは、どこぞの国会か。
「……いいよ、みんなで新しい家に行けば?」
オレはすっかり呆れて、一人で結論を出した。
「オレはこの町に残る。バイトしながら一人暮らしして、誰が何と言おうと社台高校に通う」
それからのオレの行動は早かった。両親に反対させまいと、バイト先のあたりをつけ、家賃の安いアパートを見つけ、自分の荷物をまとめた。さすがに未成年者が何の保証もなしに部屋を借りることはできなかったので、父と母を全力で説得して書類を準備し、不動産屋やアパートの管理者にも会ってもらった。
受験なんかよりずっと必死だった。結果は強引に出した。かくしてオレの一人暮らしは始まったのだ。
ところが第二の不運はすぐにやってきた。アパートに引越し、高校に入学し、バイトも仕事を教えてもらってなんとかやっていた頃。つまりはまだ全てが始まって間もない時期。
この町で、殺人事件が起こった。普段は静かで目立たない町が、全国的に知れ渡った。殺害方法がそれは酷いものだったとか、被害者の人間関係が複雑だったとか、容疑者が未だに捕まっていないとか。そういう話題が好きなやつらには最高のエンターテイメントだっただろう。
同時に、両親がオレを心配する大きな材料にもなった。殺人が起こるような危険な町に、しかもまだ犯人がうろついているかもしれないような場所に、子供を一人で住まわせておけないと思ったらしい。毎日のように電話がかかってきて、こっちに来なさい、転校しなさいと言ってきた。
冗談じゃない。こっちは新しい生活にやっと慣れようとしているところなんだ。心配してくれるのはありがたいけれど、あまり知らない場所でまた一からやりなおすのは気が進まない。
「とにかく、そっちに行く気はないから。……バイトの時間だから、もう切るよ」
そうしていつも無理やり突き放して、一人暮らしを続けていた。
二度あることは三度ある。三度目の不運はなんだろう。これも何度か経験すれば、いつものことだとかわせるようになるのだろうか。
「……めんどくせえ」
独り言を呟いて、床に寝転がる。今日は学校もバイトも終わり、あとは寝てしまうだけだ。夕飯はバイト先でもらったもので済ませた。……あ、宿題があったっけ。
しかたなくノートに向かうと、また実家からの着信があった。相手をしていたら宿題が終わらないので、出ずに切ってしまう。
けれどもその直後、今度はチャイムがなった。誰かが部屋に来たのだ。こんな時間に誰だろうと、渋々出る。
「ああ、なんだ。服部先生」
「こんばんは。遅くにすまないな」
訪問者は、隣の部屋に住む中学校教師だった。オレが通っていたところとは別の学校で教えているので、この人がどんな授業をしているのかはしらない。科目が英語だということだけは聞いた。
オレがここに引っ越してきた初日から、服部先生にはいろいろと世話になっている。荷物を運び入れるのを手伝ってくれたり、一人で暮らしていくにあたって相談にのってもらったり。
それから、ときどき食料もくれる。
「上の階の井藤から、山菜のてんぷらをもらったんだ。食べられるか?」
「食べます! オレ、山菜ってけっこう好きなんですよ!」
皿に盛られたてんぷらは、少量だけどいい匂いがする。宿題を全て片付けるには少しばかり時間がかかりそうだし、夜食にさせてもらおう。
オレが喜んで皿を受け取ると、服部先生も嬉しそうに微笑んだ。「若者は山菜なんか食べないんじゃないかと思った」らしい。いやいや、このあたりは山に囲まれているから、慣れ親しんだおやつだ。しかも上の階に住んでいる井藤先生は、これまた中学校教師なのだが、数学担当にもかかわらず料理がかなりうまいのだ。
「ありがとうございます。井藤先生にもよろしく」
「ああ、伝えておくよ。……ところで、健太」
服部先生が真剣な顔をした。これはあの話題かな、とすぐにわかる。もう何度も言われているのだから。
「バイトの帰りとか、遅くなるときは気をつけろよ」
「わかってますって。先生まで親みたいなこと言わないでください」
例の殺人事件があってから、大人たちは子供をやけに気にかけるようになった。あの事件の被害者は大人の女性だったが、彼女の遺された一人息子はオレと同学年だった。被害者の人間関係などがよく話にのぼっているが、それを考えると、その子供にも被害が及ぶ可能性があるのではないかとよく言われていた。
当人はもちろんのこと、同じ高校生が巻き込まれてしまうことを、町の人たちは恐れていた。
「オレは心配しすぎだと思います。親もオレに、家族と一緒に住んで転校するようになんて言いますけど。オレは大丈夫ですよ」
「大丈夫かどうかわからないから、俺も親御さんも心配している。……万が一、健太に何かあったら、親御さんはただ悲しむだけじゃない。健太を一人でこの町に残したことを、一生後悔するだろう」
先生の言葉はずっしりと重かった。親が悲しむ、なんて言葉は聞き飽きたけれど、後悔するなんて言うのは先生くらいだった。
「先生は、オレが家族と住んだほうがいいと思うんですか?」
もしかしたら先生は、本当はオレに出て行ってほしいのかもしれない。この町を離れ、家族と一緒に暮らして、安全が約束された場所にいてほしいのかもしれない。そう思って尋ねてみたのだが。
「ただ、気をつけろと言っている。家族と暮らすかどうかは、健太次第だろう」
先生は決して、オレに「家族と暮らせ」なんて言わなかった。
「もうすぐ連休だ。バイトもいいが、家族に顔を見せには行け」
「……はい」
「それから、心配と家賃の礼をきちんと言え。そのために親からの電話に出ろ」
「はい」
先生の言うことは、なぜか素直に聞いてみようと思えた。家族のように近すぎず、友達というには少し遠い。そんな距離が、ちょうどいいのかもしれない。
もし、三度目の不運があっても。その度にオレは行動して、人に助けてもらって、乗り越えるんだろう。
隣には先生もいる。なんだかんだいって、俺のことを考えてくれている家族もいる。
だけどそれだけは、何回あっても当然のことだと思っちゃいけない。その度に感謝して、返していかなきゃならない。
とりあえず今できることは、親に「ありがとう」とひとこと言って、とにかく生きることだ。