仕事帰りに焼き鳥屋に寄って、鶏モモ串をタレと塩半々で計六本購入。休日のうちに買っておいたビールが冷蔵庫で冷えているはずなので、この最強コンビを晩飯にしよう。
他はなんにもいらない。というか、さっさと食って飲んで寝てしまいたい。今日の嫌な出来事を全部忘れて、せめて幸せな夢を見るんだ。
ビニール袋から溢れてくる香ばしい匂いが、俺を「早く帰ろう」と急かす。あと少しだ。あと少しで、古アパートの暖かい部屋に辿り着く。
「お、根谷君。おかえりー」
隣の部屋の前で、彼女は煙草を吸っていた。平日のこの時間にいることはとても珍しくて、俺は思わず二度見した。
「秋華さん、今日はどうしたんですか?」
「うん? ああ、休みだったの。根谷君まだ帰ってきてないみたいだったから、一緒に飲もうかなって思って待ってた」
そんなこと考える前に、ゆっくり寝ておけばいいのに。そう思ったけれど口にはせず、俺は部屋の鍵を開け、秋華さんを招いた。しかし彼女は「ちょっと待って」と自分の部屋、つまりは俺の部屋の隣に引っ込み、また出てきた。その手には煙草ではなく、缶ビール一ケースと、温めるだけで食べられる米が二パックあった。
「どうせ、その焼き鳥で晩御飯済ませようとしてたんでしょ? お米もちゃんと食べなさいよ」
自分も不規則な食生活をしているくせに、秋華さんは偉そうに言った。
レンジで温めた米と、俺が買って来た焼き鳥。それからうちの冷蔵庫に入っているものよりも値段の高い、秋華さん持参のビール。俺たちは乾杯をしてから、栄養バランス完全無視の夕食をとった。
串からはずした焼き鳥と米を行儀など考えずにかきこむと、今日一日生きててよかったと思える。朝から晩まで上司や客にねちねちと嫌味を言われ続けたことが、報われた気がした。
「秋華さんは、明日も昼からですか?」
口の中を空にしてから、ビールをちびちびやっている彼女に尋ねる。すぐに肯きが返ってきた。
「そうだよ。大丈夫、根谷君が朝からなのはわかってるから、邪魔しないようにすぐ帰るよ」
「いや、俺はかまわないんですけど」
さっさと寝てしまうつもりでいたが、秋華さんがいるとなれば別だ。この明るい人は、いるだけで俺のストレスを軽くしてくれるのだ。
普段は日曜日の夕方から一緒に飲むことが多いので、まるで今日が休みであったかのような錯覚に陥る。けれども体は、一日しっかり働いてきたことを示していた。疲れは自然と、言葉となってこぼれていく。
「そうだ秋華さん、聞いてくださいよ。今日も変なクレーム来て、うちのクソ上司は俺の説明が悪いって言うんですよ。俺はあいつが言ったことをそのまんま伝えただけだっての!」
「そりゃあ災難だったね。クレーム処理は私も苦手だけどさー」
こぼれた言葉を秋華さんは一つ一つ受け止めてくれる。俺が悪いなんて、ひとことも言わない。だから俺は気分良く愚痴を吐き続けることができた。
そうして俺がすっきりした頃、ちょうど米も焼き鳥もなくなり、ビールの缶も空になった。
秋華さんはそれらを手際よく片付けると、よいしょ、と言いながら立ち上がった。
「それじゃ、根谷君も明日早いだろうし、私は部屋に戻るね。おやすみ」
「おやすみなさーい」
すっかりいい気分になってしまった俺は、秋華さんを見送ると、そのままベッドに倒れこんで寝てしまった。
翌日、いつもどおりに会社に行き、いつも通りにクレームを受け、いつもどおりに上司に嫌味を言われた。
クレーム回避のためにいくつか提案をしてみるが全部却下され、またクレーム。俺の仕事はそういうものだ。
今日も焼き鳥を買って家に帰ると、隣の部屋はまだ電気が点いていなかった。いつも秋華さんは昼頃に出勤し、夜中に帰ってくるので、これが当たり前だ。
俺は一人でもそもそと焼き鳥を食い、シャワーを浴びて、さっさと寝てしまった。どうせ明日も同じような一日だろうと思いながら。
ただ、日曜日だけは楽しみだった。また秋華さんと一緒に飲んで、話ができると思っていたからだ。
ところが、その週の日曜日、秋華さんは朝からいなかった。
毎週聞こえる掃除機の音がしない。ということは、どこかへでかけているのだろう。彼女にも予定があるよな、と思いながら、つまらない休日を過ごした。
秋華さんが帰ってきたのは、どうやら真夜中だったらしい。
次に秋華さんに会ったのは、その翌朝だった。俺が出勤するのと同じ時間に、彼女は部屋から出てきた。
「おはよう、根谷君」
目の下が真っ黒な秋華さんが、へらりと笑って言った。化粧をしているはずなのに、くまは目立っていた。
「おはようございます。どこいくんですか?」
「仕事。土曜から早番なの。それじゃね、いってきます」
ぱたぱたと走っていく秋華さんを見送りながら、俺は胸がざわざわしていた。この嫌な感じがなんなのか、わからないまま自分も会社へ向かった。
結局その日もいつもと同じ、クレーム対応に追われて帰ってきた。かなり遅くなってしまったのに、隣はまだ誰もいないようだった。そうして夜中、ふと目が覚めたときに、やっと壁の向こうに人の気配が戻ってきた。
おいおい、早番って言ってただろう。もしかして朝からこんな時間まで、ずっと仕事だったのか。
秋華さんが心配になりながらも、眠くてしょうがなかった俺は、すぐにまた夢の中へ落ちていった。
そうして次の朝、また秋華さんに会った。次の日も、その次の日も。彼女は朝に出て行って、日付が変わってから帰ってきた。
一度、秋華さんに「毎日それで、体もつんですか?」と尋ねたことがあった。すると彼女は「うちに帰って寝られるだけマシ。世間にはもっともっと大変な人がいくらでもいるんだから」と笑顔で答えた。
なんとも弱々しい笑顔だった。
日曜日も休みではないらしく、朝から出かけていって、夜中に帰ってきた。毎週のようにやっていた二人の飲み会は、まるで遠い思い出のようだった。
そんなことがひと月ほど続いた、ある朝のことだった。
欠伸をしながら出勤しようとしていた俺の、眠気を一気に覚ます出来事があったのは。
「秋華さん!」
そう叫んだことは覚えている。あとは必死で、何を言ったのか覚えていない。
救急車のサイレンの音や、車に乗っていた救急隊員が俺に秋華さんのことをあれこれと聞いていたことは、ぼんやりと頭に残っている。
秋華さんがアパートの前で倒れていた光景が鮮明すぎて、他のことはよくわからなかった。
彼女は、過労だったらしい。俺は、それを知っていた。
結果、どうなったかというと。秋華さんはアパートを引き払って、実家で療養することになった。
引越しは彼女の家族が行なったが、俺も隣のよしみで、と手伝わせてもらった。大きな家具は、男手が必要だろうと思ってのことだ。
だから、彼女の日記を見たのはほんの偶然だ。わざと読んだわけじゃない。
『根谷君と一緒にご飯を食べて、お酒を飲んだ。彼は楽しい。弟ができたみたいで、しっかりしなきゃ、と思える』
『早番が始まる。日曜も休みがとれないようだから、しばらく根谷君と飲めないな。愚痴を言う相手、私以外にいるのかな。どうか根谷君が溜め込みすぎて爆発しませんように』
『仕事、ちょっと失敗。謝り倒したし、次はしっかりやろう。根谷君だって、毎日クレーム受けてるんだもんね。頑張ろう』
『今日は大失敗。私が悪い。叱られるのは仕方がない』
『どうしてこうも失敗ばかり。ものを覚えることも難しくなってきて、メモの量が増えた』
『どれだけメモをとっても覚えられない。メモの場所、動かしてないはずなのにわからなくなる』
『私のせいで混乱してしまったのだ。死ねと言われてもしかたがない』
『ここで死んだら迷惑がかかる。会社も家も、他の場所でもだめだ』
『根谷君がとなりにいるのに、がんばってるのに、私がこんなところで死ぬわけにはいかない』
『文字ふるえる。手うまくうごかない』
寝る前に書くのが、日課になっていたのだろうか。俺の隣の部屋で、彼女はずっと一人で苦しんでいた。
溜め込んでいたのはどっちだよ。いつもいつも、俺の愚痴だけ聞いて部屋に帰って。俺は、彼女にひとことの愚痴を言わせることもできなかった。
俺は彼女の親に土下座して謝った。隣にいたのに、彼女と話ができたはずなのに、こんなことにしてごめんなさい。どれだけ謝っても足りないけれど、ごめんなさい。ごめんなさい……
隣の部屋、203号室は、それ以来空き部屋になっている。
焼き鳥の袋を提げて帰ってくる度、電気が点いていないかなと期待するが、毎日きちんと裏切られる。
いつの間にか時は流れ、季節は移り変わり、逆隣に住んでいた学生が出て行った。入れ替わるように、新しい入居者が来た。それでも203だけは空き部屋のままだった。
「201に越してきた河野です。これからご迷惑になるかもしれないので、ご挨拶に……」
逆隣に越してきたのは、秋華さんとそれほど変わらない年ごろであろう女性だった。俺は「こちらこそよろしくお願いします」と言ってから、少し考えて、もうひとこと付け加えた。
「あの、疲れたらちゃんと休んでくださいね」
彼女にしてみれば、わけのわからないことだったと思う。けれども、とっさに出た言葉だった。
「ありがとうございます。そうします」
彼女はきれいに微笑んで、そう返事をした。俺の話を聞いてくれていたときの秋華さんに、どこか似ていた。
そして奇しくもその日、今は遠くに住む秋華さんから、初めての便りがあったのだった。