妻と娘が死んだ。おそらく僕の写真の、一番のファンでいてくれた彼女らは、事故であっけなく逝ってしまった。

少年時代から、僕の興味は写真にあった。時代が移り変わり、カメラの形態もどんどん変化していったが、できあがった写真の魅力はちっとも変わらない。
人を、街を、野山を、空を。僕はレンズ越しに見て、その瞬間を収めた。もう二度と捉まえられない一瞬を切り取ることは、なんて贅沢なのだろう。それを後で見て、思い出を語れることは、なんて素晴らしいことなのだろう。僕は心から、写真が好きだった。
そして写真と同じくらい、妻と娘が好きだった。愛していた。彼女らが僕に向けてくれる笑顔を、僕は写真に収めた。何枚も何枚も撮ったそれは、アルバムに大事に綴じてある。彼女らは、もうそこにしかいないのだ。
妻と出会ったきっかけも写真だった。僕がカメラを構えたり、できた写真を嬉しそうに眺めているのを見るのが好きなのだと、彼女は言ってくれた。
彼女とのあいだに生まれた娘も、写真が好きだった。幼い娘に与えたトイカメラは、その目でしか見ることができない貴重な場面を写し出していた。
幸せな日々だった。喪ってから暫くは、死にたくてたまらなくなるほどに。
僕は長いことやっていた写真の仕事を休み、毎日悲しみに暮れていた。

けれども、僕は生きていた。ある日アルバムを開いて、そこに妻と娘の笑顔を見たとき、また写真を撮りたいと思ってしまったのだった。
泣きながらアルバムを見て、涙が乾ききらないうちにカメラを引っ張り出して、手当たり次第に家の中のものに向けてシャッターを切った。
暗い。僕が悲しみを閉じ込めていた部屋は、あまりにも暗かった。そこで僕は半ば衝動的に荷物をまとめ、外へ飛び出した。
家族で遊んだ公園や家族で歩いた道など、思い出がある場所をとにかく撮った。久しぶりに出た外は明るくて、滲んで見えた。
写真を撮りたいというのは、つまり、僕にとって生きたいというのと同じだった。僕は愛する者を喪ってもなお、生きたいと思ったのだ。
それからはがむしゃらに生きた。とにかくたくさんの場所に行って、精一杯生きた。
家族で来られなかった場所で、僕は写真を撮った。愛する者がいなくなってしまっても、写真の魅力は変わらず、世界は美しかった。
県境を越えて、野山を撮りに行った。木々のあいだから見える空を収めた。山を下りて、来たことのなかった街を訪れた。神社を、商店街を、人々の息づくその地を夢中で撮った。

そうして写真がかなりの数になったとき、僕はその中から厳選したいくつかを使って、個展を開くことにした。家族を喪ってから初めての個展だった。
写真を選ぶときの基準は、それを見たときに妻や娘の笑顔が思い浮かぶかどうかだ。所詮は僕の想像でしかないのだけれど、彼女らがきっと笑ってくれるであろうものから選定した。
そうして僕は、礼陣の街のギャラリーで、とても小さな個展を開いた。宣伝も何もしておらず、ただ自分の名前に写真展と書いた紙を一枚、外に貼っただけだ。けれどもこの街の人は温かく、まばらにではあったが、写真を見に来てくれた。
その中でも、特に印象に残っているのが千原君だった。
彼は個展に来てくれたお客さんの中でも特に若く、けれども誰よりも疲れた顔をしていた。
それが、僕の写真を見て目を大きく見開いた。何かまずいことでもあったのかと思ったが、そうではなかった。
「すごい写真だな、と思って」
千原君はただひとこと、そう言った。それだけで十分だった。
それからほんの少しだけ話をしたが、彼の経歴はなかなか辛いものだった。大学に入ったけれども、それほど経たずに辞めてしまい、ご両親からは縁を切られてしまったという。
だから疲れていたのか、と思うと同時に、もっと彼と話ができたらと考えた。僕の写真を熱心に見てくれ、抱えていたものを初対面の僕に見せてくれた彼と、言葉を交わしてみたかった。
「ここに引っ越してきてもいいかなって思ったんです」
気がついたら、僕はそんな言葉を口にしていた。
このあたりの景色は素晴らしい。とてもいい人たちが住んでいる。それももちろん理由ではあったけれど、僕は何よりも彼が気にかかっていた。
彼の住むこの町で、再スタートをきりたかった。

そうして引っ越してきたのが、コーポラス社台というアパートだった。古いが部屋数があり、色々な人が暮らしているようだ。住人が入れ替わることはしょっちゅうだったけれど、その度に僕は出会いを喜び、別れを惜しんだ。
僕は写真を撮るためによく部屋を空けていたけれど、帰ってくる度、住人に挨拶をしてまわった。もちろん、上の階に住む彼にもだ。
「千原君、ただいま」
僕は男の子には似合わないような可愛らしい箱を持って、彼を訪ねた。紅茶とクッキーなんて、喜んでくれるだろうか。
これは僕が家族へのお土産としてよく選んでいた品だ。地方のお菓子屋さんで、美味しそうなものを選んで買ってくる。人のためというよりも、僕の楽しみだったかもしれない。
それでも千原君は、笑って受け取ってくれた。
「ありがとうございます、村井さん。俺、毎回楽しみにしてるんですよ。あとで写真見せてもらいにお邪魔します」
「うん、待っているよ。千原君の反応を見てから、次にどこに行くか決めたいからね」
妻よ、娘よ。僕は生きて、新しい楽しみを見つけることができた。
これから先、この場所からどこへでも飛んでいって、そしてまた帰ってくるだろう。僕はそんな生き方をしてみようと思うんだ。