便利な世の中になったものだ、と思う。
金を稼ぐのも、それを使うのも、自宅にいながらにしてできる。
ディスプレイに表示される数字やら線やらを見ていれば、あとはクリック一つで、運次第では暫く何もしないでも暮らせるくらいの収入を得られる。通販サイトにアクセスすれば、衣食だけでなく最新の嗜好品まで事足りてしまう。
つまり俺は、この狭い部屋から出る必要がない。せいぜい玄関で届いた荷物を受け取るくらいだ。
それではコミュニケーション不全になるのではないかって? ところがそんなこともない。今や誰でも、インターネットを介して世界中の人間とやりとりができるのだ。もっとも、俺はそんな面倒はごめんだが。リアルだろうとバーチャルだろうと、人と関わるのは億劫だ。
そういうわけで今日も、俺は文明の利器を駆使して手に入れた金で、これまた文明の利器を駆使して手に入れたラーメンを食っている。袋麺を数種類、箱買いしておけば食事に困ることはない。
……あちち」
細い麺と濁ったスープに満たされたどんぶりを、机へ運ぶ。皮膚に感じる熱さが、俺の生きている証拠だ。
申し訳程度に瓶詰めのザーサイをのせた、塩ラーメン。具があるだけマシだろう。いただきます、と呟いてから、箸をつっこむ。
麺をすする音と、パソコンが必死で動いている音だけが部屋に響く。……そろそろパソコンも、中身を整理してやったほうが良さそうだ。あるいは、もっとスペックを上げるか。
考えながらデスクトップ上のウィンドウを少しずらしてやると、隙間から壁紙が見えた。
「あ、そうだ」
それで思い出した。珍しいことに、今日はデザートもあったのだ。
俺が現在、唯一まともに話せる人物がくれた、土産物。どこか地方の洋菓子店で買ったとか言っていた。生ものではないと言っていたが、早めに食べた方がいいだろう。
ラーメンどんぶりを空っぽにして、すぐに台所へ戻る。食器はすぐに洗って拭いて、棚へ片付けてしまう。それから、めったに使わなくなってしまった電子レンジの上へ目をやった。
ファンシーな絵柄のついた箱が鎮座している。あの人も「男の子にあげるには、ちょっと可愛すぎたかな」なんて笑っていた。俺はそんなことよりも、自分がもう「男の子」なんて年じゃないことに苦笑したのだが。
小さな女の子なら、きっと喜んで大切にとっておくだろうと想像できるような箱。それをうっすらと埃の積もった電子レンジから、恭しく下ろす。見れば見るほど、いい年の独身男には似合わないデザインだ。
蓋を固定していたテープを剥がして、そっと開けてみた。中には一枚一枚種類の違うクッキーと、何やら高そうなパッケージの紅茶のティーバッグが入っていた。
箱も中身も、俺には似つかわしくない。だけど、あの人がこれを選び、箱に詰めてもらっている様子は容易に想像できた。そう、あの人には、これくらいファンシーなものも似合うのだ。
俺は早速湯を沸かし、クッキーと紅茶をいただくことにした。

あの人と出会ったのは、首を吊るためのロープを買いに行った日だった。
特に理由はない。死にたくなったから死のうとした。けれども確実に死ねる方法が首吊り以外に思いつかなかったために、わざわざそれに足るだけのロープを買いに外へ出た。
ロープはどこに売ってるものなんだろうかと思って街をうろうろしていたら、手書きの貼紙が目に入った。ただ画用紙に「村井彰正写真展」とだけ書かれている、小学生でも作れそうなものだった。
ポスターが貼ってあった建物は、どうやらギャラリーのようだ。芸術家と呼ばれる人々が、数日から数週間ずつスペースを借りて、そこで個展を開いているらしい……ということを後で知った。
俺は何も考えず、ふらりとそこへ入っていった。写真に興味があるわけではない。今でも、地味な貼紙が俺を呼んだのだとしか思えない。
そのスペースに足を踏み入れた途端、俺はロープのことを忘れた。
壁一面に広がる色。目に痛いものではなく、頭の中を温かなもので満たしていくような光景。何枚もの風景写真に、俺は圧倒されてしまったのだった。
それらは立派な額に飾られてなどいなかったし、洒落たライトに照らされているわけでもなかった。壁にかけられたパネルと、部屋を照らす天井の蛍光灯、ただそれしかここにはない。だけど、俺を立ち止まらせるのに十分な説得力を持っていた。
「どうかされましたか」
入り口でぼうっと突っ立っている俺に、あの人は受付から声をかけた。はっとして振り返ると、こちらを心配そうに見つめる顔があった。
「いえ、なんでも……
そう言いかけて、でも、思い直した。なんでもないわけはない。
……すごい写真だな、と思って」
少ない語彙から、とりあえず引っ張ってきただけの言葉だった。だけどあの人は、それを聞いてぱあっと笑顔になった。
「ありがとうございます。嬉しいなあ、こんな若い人が見に来てくれるなんて思わなかった」
まあ、まず、あの貼紙を見て興味を持つような若者はいないかもしれない。俺だって、考えなしに立ち寄ったのだから。
よほど客が来なかったのだろうか、あの人は心底嬉しそうだった。俺が台帳に書いた名前をしげしげと眺め、ふわふわと笑っていた。
展示されている写真の下には、撮影した日付と場所が掲示してあった。主な被写体は近隣の野山らしいが、俺が見たことのない景色ばかりだった。部屋にこもってばかりいれば、自然とそうなる。
それにしても、ここいらはこんなに鮮やかな風景だったのだろうか。空はこんなに濃い青色をしていただろうか。あの人の目を通して見る世界は、ひたすらに美しかった。
「君はこのあたりに住んでいるのですか?」
あの人はいつのまにか俺の隣に立っていた。写真に見惚れているあいだに、受付のスペースから出てきたらしい。
「去年から住んでいます。その、大学に通うために家を出たんですけど、辞めてしまって。そうしたら、親に縁を切られまして……
慌てて言い訳をするように、余計なことまでぺらぺらと喋ってしまった。だけどあの人は、それを嫌な顔一つせずに聞いていた。うんうんと頷きながら、ふわふわとした笑みを浮かべて。
「あ、あの、あなたもこのへんに住んでるんですか?」
「いいえ、僕は隣県に住んでいます。……でもね、このあたりの写真を撮っていたら、ここに引っ越してきてもいいかなって思ったんです」
俺が挫折して、見ようとしなくなったこの町。それをあの人は気に入ったらしい。
「ここに引っ越してきたら、君にまた会えるといいですね」
さっきまで死のうとしていた俺に、そんなことを言って。

デスクトップの壁紙に設定してある風景写真を眺めながら、淹れた紅茶を飲み、クッキーを齧った。どこか懐かしい甘い味と香りがした。
この風景写真はもちろん、あの人にもらったものだ。あの後なんとなく死ねなくなった俺は、見事にあの人に再会し、デジタルカメラのデータをいくつか譲ってもらったのだ。
あの人は今、この町に住んでいる。だけどすぐにどこかへ写真を撮りに行ってしまうので、あまり姿を見ない。
ただ、帰ってきたら、真っ先に俺を訪ねてくれる。そこかしこで見つけた土産を持って、あのふわふわした笑顔で。
……お礼をしなきゃ」
この美味しい紅茶とクッキーのお返しには、あの人が好きなこの町の名物がいいだろう。こればかりは、ネットではなく店に直接行った方が良い。
たまには外に出よう。町を、山を、空を見てみよう。それから菓子の箱を持って、下の階に住むあの人を訪ねよう。
たくさん撮ってきただろう写真も、見せてもらわなくては。