教師になって一年目を過ごすこの町のいいところは、昔ながらの売り方を残す商店街だと思う。
引っ越してきたばかりだと言ったら、店の人が大量におまけをしてくれた。今後もご贔屓に、ということなのだろう。もちろん通いつめるつもりだ。
しかし、このおまけを全て期限内に消費できるかどうかはあやしい。俺は料理は得意だが、大食いはしない主義なのだ。
「さて、どうしたものかね……
しばし悩んだあと、あるアイディアが浮かんだ。あいさつがてら、近所におすそ分けしたらどうだろう。運が良ければ素敵な異性とめぐり合うことができるかもしれない。
親切心と下心の両方で、俺は台所に立った。作るのは田舎のばあちゃんから盗んだ秘伝のレシピ、野菜の煮物だ。

だが、そう都合よくことが運ぶはずもなかった。
両隣にできた煮物を持っていったら、片方は不在。片方は「隣のものです」と言っただけで「宗教の勧誘ならけっこうです」ときたもんだ。
いくらこの町に昭和のフレンドリーさが残っているからといって、このアパートの住人までそうだとは限らない。
それならこれが最後の望みだと思って、下の住人を訪ねてみることにした。
「ごめんくださーい。上に住んでる、井藤というものですー」
チャイムを鳴らして、呼びかけてみた。するとすぐにドアが開き、中から人が出てきた。……なんだ、男か。
眼鏡をかけたその男は、自分と同じくらいの年に見える。玄関にダンボール箱がいくつかたたんでおいてあるところを見ると、彼も最近引っ越してきたのだろうか。
「何か?」
男は怪訝な顔をして尋ねた。俺はつとめて笑顔で、煮物を入れたタッパーを差し出した。
「おすそわけです。引っ越してきたばかりで、まだあいさつもしていなかったので」
……今時珍しいですね」
眼鏡の向こうの目が驚く。煮物持参で来る男が珍しいのか、それともあいさつ回り自体が珍しいのか。とにかく彼は、「わざわざありがとうございます」と言ってタッパーを受け取ってくれた。
「あ、俺は井藤といいます。あなたは?」
さっきも言ったかな、と思いながら自己紹介をしてみた。男はタッパーを見つめたまま、返事をした。
「服部です。うちも引っ越してきたばかりです」
「やっぱり。ダンボールありますもんね」
……初対面の人間の家を観察するのはいかがなものかと」
「あ、すいません」
この服部という男、見た目も中身もクールな奴らしい。けれども話が通じそうだ。
これからも仲良くやっていけたらいいけれど、と思って、俺は106号室をあとにした。
……さて、残りの煮物は頑張って食うか」

翌日の夕方、俺が下の部屋を訪ねたのと同じくらいの時間に、服部はやってきた。
「容器をお返ししようと思いまして」
空になったタッパーはきれいに洗われていた。そのまま返してくれてもよかったのに。
「わざわざ洗ってくれたんですね。ありがとうございます」
「いいえ、こちらこそ。美味しかったです、煮物」
「本当ですか? 持って行った甲斐がありました」
タッパーを受け取った俺に、服部はさらに袋を差し出した。なんだか甘い匂いがする。
「お礼といってはなんですが、どうぞ。商店街のパン屋で、適当に見繕ったものですが」
「ありがとうございます! 焼きたてですね、まだあったかい」
受けとった袋から、手に気持ちのよい熱が伝わってくる。俺は嬉しくなってしまって、思わず言ってしまった。
「あがっていきませんか?」
まだ部屋は散らかったままだというのに。
服部は少し考えてから、「ご迷惑では?」と言った。俺は「全然」と返した。寧ろこの部屋の散らかりようが、この男に迷惑ではないだろうか。
しかし部屋にあがった服部は、何も言わなかった。もしかするとこいつの部屋も、まだ片付いていないのかもしれない。
俺たちはさっそくパンをかじりながら、たわいもない話をした。故郷はどこだとか、年齢はいくつだとか。服部と俺は思ったとおり、同い年だった。
「今年からお勤めですか。ご職業は?」
「教師です。中学校の」
「本当に? 俺も中学校の教師なんですよ! 中央中学校です」
偶然にも職業まで同じ。これで学校まで一緒だったら面白いなと思っていたら、
……同僚?」
同じだった。

以来、俺と服部はときどき一緒に飯を食い、酒を飲んでいる。
職場でも顔を合わせ、職員室では名コンビ扱いだ。
「なあ、井藤ちゃんと服部ちゃんって仲良いよな。本当に最近知り合ったの?」
生徒会長をやっている生徒からも、こんなふうに言われる。
「偶然が重なって意気投合したんだよ」
「野下と水無月もそうじゃないのか」
「俺と和人は幼馴染だから。……でも確かに、最初はそうだったかもな」
世の中、都合よくいかないこともあれば、うまくいくこともある。
なんにせよ、俺と服部が同じアパートに住み、同じ職場にいることは、都合のいい偶然だった。
「服部、今日うちで飲もうぜー」
「今日は彼女が来るから、また今度。その時は煮物を作っておいてくれるとありがたい」
「お前、あの煮物好きだよな」
この年になってできた友人と、さて、いつまで仲良くやっていけるか。
少なくともあのアパートにいる間は、この関係を維持したいものだ。